甲子園を目指す地方大会で
「番狂わせ」と言われる試合は何試合かあるが
甲子園では、意外とそれは多くない。

もちろん、どこも甲子園に出るレベルのチームで
基礎的なレベルが高いので「番狂わせ」という言い方そのものが失礼…
というのもある。

が、そう極端に言わないまでも
甲子園では「勝つ」と予想されているチームが
「負ける」と予想されているチームに
負けてしまうことは驚くほど少ない
というのが私の印象だ。
(つまり、スポーツ紙や高校野球ファンの戦前の評価は、意外と正しいと言うことだ)

今大会でちょっと意外な結果が出たのは
津商業×智弁和歌山、創成館×天理、秋田商×健大高崎ぐらいのもので
(個人的に早稲田実×東海大甲府を加えても良い)
あとは概ね妥当であるか
関東一高×高岡商などのように
「予想したよりも接戦になった」程度のものでしかないのだから
案外、ドラマは筋書き通り
に進むのが甲子園だったりもする。

そう考えると
もし、明日、仙台育英が東海大相模に勝つことがあるとすれば
少なくとも
先述の3試合に匹敵するぐらいの
驚きが与えられるのではないだろうか。
個人的に、それほど東海大相模は強そうに見えた。


1990年の仙台育英×帝京は
幼かったこともあり、ほとんど記憶にないが
2001年の仙台育英×常総学院
2003年の東北高校×常総学院は
戦力や勝ち上がりから考えて
「普通にやれば」
それぞれ、仙台育英、東北が勝つと言われて始まった決勝戦だった。

ただ、それが「普通にさせてくれない」常総学院の前に
敗れ去ってしまったのだから
かなり不完全燃焼だったが
今回の東海大相模は
ひょっとすると「普通にやっても勝てない」相手なのかもしれない。

正直なところ
舞台として、相手として、これ以上のものはないが
それほど「千載一遇のチャンス!!」という気がしない



しかし、今回は
2001年、2003年とは、少しイメージが違っている。

実のところ、2001年仙台育英、2003年東北の決勝は
両方とも甲子園まで観に行ったが
心の奥底で
「勝たない方がいいのではないか」と思いながら見ていた。

東北勢、初の優勝!
歴史の塗り替え!!

という一大事を前に、なんだか、それをしてしまうと
「東北」という土地が、東北で無くなるような気がしていた。
というより
はっきり言えば、優勝の瞬間を見届けるために甲子園に行ったのではなく
「優勝しない」こと、自分たちの歴史の不変を監視するために
私は甲子園のスタンドに行ったような気さえするのだ


政治にしろ、経済にしろ、スポーツにしろ
あるいは、もっと個人的な個々のコミュニケーションにせよ
白河以北、一山百文。
「東北」とは総体として
やはり辺境の代名詞であり、抑圧されること、忘れられること、苦しいこと
「敗れること」を宿命づけられた土地という感じがする。

そして「敗れること」を通じて生まれる悲劇性こそを
自らのアイデンティティ、連帯の紐帯にしてしまうという
いささか屈折した奇妙なところがある。
(他の土地の人々から「僻みっぽい」「陰鬱」など、イメージされる由縁でもある)

つまり、どうやって勝つべきか、どうやって勝ったかを
決して自らのアイデンティティとすることはない。
どうやって敗れるか、どうやって敗れてきたのかを
いかに悲劇的に語りうるか、ということなのだった。

当時、2001年は高校生、2003年は大学生になっていた私は
そんなことを奇妙に考えていた。



ところが、ここ10年ぐらいで
状況は大きく変わってきた。
まず、あの大震災が起きた。
あの悲劇的な災害を見るにつけ
東北は、ますます抑圧され、忘れられた地となった…と語る論調が多かったが
私の中で、どうもそういう風には見えなかった。

福島の浜通り、宮城の石巻・気仙沼、岩手の長い沿岸…
という、太平洋側では
最後に残った「東北の場所性」とも言える場所が
根こそぎ、消え去ったような印象を受けた。

どうも、あの日以来、復興だの何だのと言われても
すべてが虚構のハリボテに見えるのであって
「敗れの美学」を通り越して、美学を語る主体の喪失を感じるようになった。


さらにもう1つ言えば
東北楽天が、ワシこと星野仙一の力を借り
巨人を日本シリーズのギリギリのところで下した時点で
「敗れの美学」は終わっていた。
星野が3年間を賭けて否定しようとしたものは
まさに「敗れの美学」を
つながりの紐帯とするような
(彼にしてみれば)甘な東北人の態度、楽天ファンの態度
それを共有する選手たちの態度だった。


もはや、東北に「敗れの美学」は残っていないのではないか。
(あるとしても、それは先日の秋田商のような限定的なものでしかない)

今回、「さすがに」「そろそろ」いいんじゃないか
と思っているのは
私だけではないような気がする。

宮城県の野球を見続けてきた人間としても
「今回の育英でいいのか?」
という思いはありつつ
そろそろ、我々は先に進まなければ、いけないのではないか。とも思っている。